記事の更新は少ないです…が時々コメント欄で話題を広げていたりします。楽しいコメントをいただければ嬉しいです。
(返信できないかもしれません。ご了承ください)

2008年4月29日

黒軸入手

キーボード自作作戦の重要パーツ、Cherryの黒軸をゲットしました。

今回の作戦の要所はこちら↓
・タブレットPC FMV-STYLISTIC TB11 で使う
・片手でも両手でも使えること。基本は座って使う(立って使えれば尚GOOD)
・有線USB接続
・日本語入力に特化したデザイン

2008年4月24日

死の道具

何かを道具として使うということには、責任が発生します。
人にしても、ものにしても、その影響について、道具使用者は目を背けることはできません。

硫化硫黄を死の道具として使う場合、その責任はだれにあるのでしょうか?それを意図した、自殺志願者に責任ありということになります。
誰かの使ったガスが影響して、多くの人が巻き添えを食います。
責任をとってください。
とれないなら、ほかの方法にしてください。

無責任に、死の道具の使用方法を公開しないでください。
あなたがもし注目をあびるために、またはアフィリエイトで稼ぐために、死の情報を道具として用いるのであれば、その情報で死ぬ人の顔を想像し、その死ぬであろう人のそばで苦しむ人の顔を想像し、苦しむ人の周囲で泣いて悲しむ人の顔を想像しながら、
ニュースで新しい報道がなされるたび、その責任を負ってください。

それが、道具としてモノを扱う、人間としての最低ラインです。
匿名だからとか、おもしろいからとか、そんなのいいわけです。
モノを道具として使う原罪を背負って生きなければならない人間として、最低限の責任です。

2008年4月23日

なんなんだ!

コンピュータはちょっとしたメモでも1000字2000字とかける。
タイピングは書くより速いから。

でも一瞬で消える。
消えた。影も形もなくなるのはよくないよ。また打つ気をなくすよ。

Vistaにメモリーカード刺したら、キーボード・マウス・タブレットが止まった。操作できない。しばらくしたらスクリーンセーバが立ち上がった。でも操作できないから保存できない。電源切った。メモ消えた。
一体、なんなんだ!

2008年4月17日

技術立国?

日本は技術とともにあったわけではないというと語弊がある。電子技術とともにあったわけではない。

和算の文化では、算術の発展とともに算木、算盤といった論理計算の支援ツールが開発された。
電卓が導入されたのは明治時代であり、このとき学制によって洋算が導入された文化が、今日も続いている。洋算が導入された後に電気計算機が登場したこともり、今では和算文化は保護しなければ滅亡しうる立場にある。

日本の技術は、むしろ明治以前の土台があるのではないだろうか。
算木は5進法で演算するツールだが、日常生活は5進法だったのだろうか。(つまり、八百屋に行くと値札に算木表記があったのだろうか?)とすると、当時漢字があるはずなので、違いそうな気がする。
その後、筆算ができたそうなので、平面があれば複雑な計算ができたが。外で書くという時代ではないはずだ。
算盤はイノベーティブで、5進法の計算がどこでもできるようになった。モバイルだ。ものづくり技術の精度は、算木や書字(筆算)に比べてはるかに高かっただろう。しかしその技術も、算術が身についていなければ使えない。
どれほどの人が算盤を使いこなしたのだろう。(あるいは、どれほどの人が筆算の段階でとどまったのだろう。)興味深いのは、数学の問題が解けたことを神に感謝し、神社なりに「算額」という絵馬状のものに問題を書いたものを奉納したそうだ。文化の中に、算術を共有する機会があった、ということだろう。(これは日本独特の文化なんだそうな)
電卓ができたのに、現代ではそういう文化はない。そのあたりに、なにか違和感がある。

おもしろいことはまだある。日本には四季があり、梅雨があり、雪が降る。だから、外で記号演算をすることはイコール暗算・暗記するということだった。算盤はそういう意味で革新的で、外で記号演算ができるようになった。現代はなんとなく、その辺の歴史を繰り返しているような気がする。本にしても、読書はするがメモはしない。でも、(算盤にかわって)携帯電話が登場して、傘を差しながらでもインタラクションできる機械が登場している。そのせいかどうかは知らないが、掲示板やコミュニケーションサイト(mixiのような)が流行し、頻繁に行き過ぎる人がでるほど発展している。
現代の携帯電話、サービスは非常に進化した。ユーザーがサービスの途中で滞留しないよう、あの手この手で支援している。しかし、その方面は産業方向への偏りが著しい。
なんとか、科学ないし学問の方向性でそういうサービスを展開できないものだろうか。

算盤は経済活動と平行しつつ、算術は発展していた。
生活水準と乖離した算術は、統計学やマーケティングと平行した。
統計やマーケティングとも乖離した算術は、物理や天文学の水準と平行する。
算術は、他の領域があって発展しているような気がする。

心理学はまだ生活の水準にとどまっている。それは人を対象とする学問であるから当然ではあるが、
他の領域と組み合わせることでさらに発展しそうな気がする。

道具は理論に追随する。
理論を育てるのは小中学校、学ぶのは高校大学の、理論を作り出すのは大学院の役割。
その拠点が何らかのサービスを、傘を差しながらでも実施できる道具として展開できないものだろうか。

軽薄短小・防水・耐衝撃・タフブック+数学ポータル+タブレットかな。

シャープの事情

シャープのモバイルPC、MURAMASAのことを最近聞かない。

薄く小さくを目指していたシャープMURAMASAは、初代MURAMASAでpentium3を採用しながら薄さ20mmの超薄型ノートPCを開発した。さらにその後、低消費電力のTransmetaのプロセッサ TM5800でさらなる小型化に成功したが、Transmetaのプロセッサ速度に対する悪い評判が立ってしまった。その後より高速なTM8800を採用するも、その頃PentiumMが圧倒的に高性能・低電力だったため「遅い」というイメージを払拭できなかった。やがてTransmetaはIntelに敗北し業界から去った。しばらくはPentiumMの時代が長く続いたが、Coreシリーズの登場でCPUの消費電力(=熱)の枠を大幅に引き上げられ、結局のところ2007年は、薄型小型のコンピュータの設計に無理のある、バッテリ駆動時間が3時間以下の、大食漢のコンピュータが流行した。折しもVistaによってパワーのあるCPUが必要であるかのようなデマが飛び交っていた時代でもあり、シャープの薄型PC、MURAMASAは出る幕がなかった。

ところが、ここに一筋の光が差す。
UMPCというジャンルが第二の波をたてた。7インチ程度のディスプレイに低消費電力のプロセッサを組み合わせて、WANを活用したネットワークコンパニオンをつとめさせようとするデバイスである。
思い起こせば、WillcomのW-ZERO3、E-MobileのEM-ONEなどはシャープの作品であった。
そして、その流れを継いでか継がずか、Centrino Atomを搭載したWillcom D4の発表だ。
おそらく、MURAMASAとW-ZERO3は一体になって、帰ってきたのだろう。

シャープによれば「こういう製品は、Willcomのラインで販売したほうが数が出る」ということらしい。
携帯電話も手がけているシャープならではの戦略だ。
しかし、「これはPCなのか、それとも携帯なのか」という記事がWEBを賑わせている。そして、PCだという認識をする記事もある。

D4の発表会にWillcom,Sharp,Intel,Microsoftの首脳が集まった。
「WillcomD4は、Vistaのエクスペリエンスに加え、定額ネットワークを安価に提供でき、低消費電力で駆動する、わずか470gのUMPCです」ということになるだろう。
電話という要素がおまけになっていることは気になるが、もしかすると、そんなことは小さいことで、D4はUMPC大流行の先駆者(あるいは、早すぎた天才)なのかもしれない。

2008年4月14日

中途半端って意味、わかってるかな

僕はウィルコムに対して、好きなんだけどいまいち熱中できない、アンビバレントな感情を持っています。
なぜかというと・・・。
出すものすべて中途半端。

ブルートゥース搭載、でも赤外線はありません。
電話できるPDAです。でも通信中は着信できません。
パソコンと接続しても定額です。でも接続中に電話が来れば接続は切ります。
W-SIMは差し替えられます。でも差し替えを前提にした端末は1台もありません。
次世代PHSに対応しています。でもパソコン単体では次世代PHSに対応できません(W-SIMのおかげで)。
データカードにW-SIMをさして通信できるようになりました。でもその間、電話はできません。

まず考えを改めてほしいことは、
すべてが中途半端なのに、中途半端と自覚してないような気配があるわけです。
つまり、上記の例でいえば、「でも・・・」の部分がまったく抜けていて、はじめっから

ブルートゥース搭載です。
電話できるPDAです。
パソコンと接続しても定額です。
W-SIMは差し替えられます。
次世代PHSに対応しています。
データカードにW-SIMをさして通信できるようになりました。

というような具合に、中途半端だと思ってないところ。これがなんともむかむかするわけです。

今日はまた、中途半端ニュースが届けられました。
IntelのAtomプロセッサを搭載したスマートフォンが発表されました。
VistaマシンでHDDを搭載。5インチディスプレイにWSVGAの高精細な画像を表示できます。
W-SIMスロットがあり、通話もできます。
次世代PHSに対応しています。

これを、翻訳してみましょう。
覚悟はよいですか。

VistaマシンでHDDを搭載。5インチディスプレイにWSVGAの高精細な画像を表示できます。
W-SIMスロットがあり、通話もできます。でも、Vistaが起動していないと通話はできません。
次世代PHSに対応しています。ただし、1年半後まで使えません。

一番の問題は2番目ですよ。
W-SIMスロットはあきらめて、miniPCI-expressに準拠した新しいSIMを作りなさい。
Vistaが起動していないと通話できないとかいうのはよしなさい。
サスペンドしていると着信すらしないとかいう仕様はやめなさい。
バッテリが何時間もとうが、携帯電話の待ち受けが10時間とかいう前時代なものに、スマートという名前をつけること自体おこがましい。
こんな中途半端な、不可思議デバイスに時間と頭を使う前に、とっとと次世代PHSをやんなさいな・・・。

2008年4月12日

宿舎の蝉はトイレに潜む

大学にある宿舎は30年前に建てられてからあまり手がつけられないまま今に至っている。
その宿舎の今の状況は、「筑波大学 宿舎」で検索するとかいま見えるだろう。

その経験者から、夜間にトイレに行くと蝉が鳴く、という話を聞いた。
「なんのことだろう?」と言った。
こういうことらしい。

宿舎の共用部には換気扇や窓があり、明かりに寄って虫が集まる。
その明かりは就寝時に消えるが、虫は消えるわけではなく、暗くなって寝る。
一方で、トイレは人が入ると自動で明かりがつくので、虫は夜明けと勘違いする。
蝉は明るくなると鳴く習性がある。
したがって、夜にトイレに行くと自動で蝉が鳴き出す、というロジックだそうだ。

トイレといえば、用を足した後にトイレを流さない子どもがいるらしい。それは、自動洗浄便器の影響だといわれている。
立てば流れるものだというスキーマをもっているそうだ。

宿舎に子どもはいないけど、
昔の子どもがトイレを怖がるのはこういうことなのかも、と思った話でした。

「なぜ?」を考える

「なぜあの人はそんなことをするのか?」という答えに、私たちはしばしば主観的にその理由を考えてしまう。

市原市で盗まれた放射性物質入りの容器について、朝日新聞が誰が何のために、という記事を載せている。
http://www.asahi.com/national/update/0412/TKY200804120102.html?ref=rss
学者は「(盗まれた機器は)一般人に利用方法はない」と言うけど、
ほかの事件では「ゆすり目的」で盗まれている。
本当の理由というものは、自分の水準でははかれない。

子どもの行動についてもしかり、だ。親の水準でははかれない。
先日、走っている車にさわった子どもがお母さんに怒られていた。
「なぜ?」の前に「あぶないじゃない!」という論調だったが、
なんとなくそのあたりの「なぜ?」を引き出してみたい気持ちになった。

感性的に惹き付けられた、とかだろうか。

もしかして、放射性物質入り容器も、「バイオハザードマークが感性的にひきつけられた」とか。
そのレベルの大人がいることは信じたくないけど、殺してみたいから人殺しをする少年がいることを考えると、
自分や社会の基準から一歩離れて考えなければ、全く理解できないことがあるのかもしれない。

言葉の影響力

「Vistaに見切り」というキーワードがGoogle検索で増えている。
http://www.google.co.jp/search?q=Vista%E3%81%AB%E8%A6%8B%E5%88%87%E3%82%8A

元ネタはITMediaのこれ。
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0804/07/news051.html

SP0(初期版)のVistaは確かに不具合があったり、不備があったりするバージョンであることは確かだ。
だが、WindowsUpdateは的確に改善を進めてきた。現在のSP1ではかなり改善されているという印象をもてる。

でも、ユーザに印象づけられた「言葉」はユーザの目を曇らせ、「やっぱり」という接頭辞のあと、その「呪文」をとなえる。
つまり、「やっぱり遅い」とか「やっぱりVistaだめか」「やっぱり定員割れの三流大学か」とかいった具合である。
僕の周囲には、残念ながら、こういう「やっぱり●●」という使い方を多用する人が少なくない。
もちろん、理論的な筋に沿って「●●だ」という人もいますが。

メディアによる言葉には、ユーザーが感じていることに背中を押し、そのまま固定的にする機能があるのではないか。
WEBでニュースが簡単に見られるようになった今、そして「ネット右翼」と呼ばれる層ができた今、
本気でメディアリテラシーを「大切な能力」として考えなければ、ひどい文化になりそうな気がする。

こういうわかったつもりを解消するために、どう接すればいいんだろうなー。
「何事も、マスターしてから文句をいえ」ってことかな。

2008年4月11日

atomまでのつなぎ多数

小型PCが続々とリリースされている。
HPがC7-Mを採用したHP2133とか、Cloudbook、工人社のSA・SHシリーズなど。

ノート型のPCはこれまでいろいろなサイズのものがあったけど、今ではおおむね10インチ・12インチ・14インチ~に分類される。このことを考えると、両手で扱うPCとしてはこのサイズが適切で、それ以下のものはあまり好まれないだろう。
なぜなら、携帯電話のおかげで、今時ノート型PCを立って使うのは意味がないからだ。
さらに、教育市場向けとある記事もあるが、市場ではなく「教育」のことを考えるならば、このようなPCを選択すべきではないことは明白だ。

だから、小型PCが本当にニーズを生み出すのは、よりリッチな片手デバイスであるMIDやnettopなどがきてから、ということになる。今の小型PCブームは進みすぎた時代の中で、昔を懐かしむ行為に過ぎない。すぐにレッツノートはじめ現在のメーカーに戻ってくることだろう。結局、499ドルだろうが299ドルだろうが、ゴミになれば無駄金だ。

ところで、この時代に想定されている回線はもちろん、モバイルブロードバンドである。現時点では、e-mobile,docomo,auとなるだろう。ウィルコムは本気で、なりふりかまわず、W-SIMとか作らずに、まずminipci-express版の次世代PHSを作らないと、つぶれるぞー。

2008年4月3日

EeePCウォッチング

ネットを見ると、EeePCはよく分解・改造されている。
…これはほかのメーカーのPCにはない特徴かもしれない。

多くのPCは薄型化のために、フットプリントにくらべて厚みが少ない。
しかも、液晶はできる限り大型化されている。
ほとんど無駄なスペースはない。

EeePCはその点、液晶が小さく、基板の下にも多少のスペースがあるようで、
「無駄」=「有効活用できる」スペースがある、という点。

PSPみたく、「ユーザーが可愛がりたがる」機械なのかもしれないなー。

2008年4月2日

キーボードマニアとして

いろいろなキーボードを「評価」してきました。
といっても、好みのキーボードを安く買ってきては、タイピング速度測定をしたり、改造したり、長時間の打鍵をしてみて、
これはよいとか、よくないとか、そういうことをしてきたということです。
今はHHK Lite 2とか、Majestouchとか、Apple WirelessKeyboardとかを愛用しています。

でも実は、あまり満足していない。
わかったことは、キーの打ち心地だけでは打鍵は楽にならないということと、「標準キーボード」では特殊なニーズは満たせないということ。
MajestouchはCherryという会社の高品質なスイッチを採用していることが売りのキーボードだけど、キートップ(指で押しこむ部分)の作りやキーボードの横幅が僕の手に合わないためか、日本語でのミスタイプがとても多い。
Apple Wireless Keyboardはとてもよいが、長時間の打鍵をしていると指が痛くなる。また、タブレットPCと一緒に持ち運んで使うために買ったものの、立っても使えるタブレットPCと組み合わせて使える機会はほとんどない。(結局、室内で使っている。)
HHK Lite 2はキートップをパテで改造して指形に合わせたため、非常に快適に入力できる。しかし見てくれは最悪だ。

しかしながら、理想と現実との間にはまだまだ大きなギャップがある。
キーボードはかなり気を遣うので、頭にある文章と入力される文章が全然違うということも少なくない。
まだまだ、理想の入力装置との出会いはまだ果たせていない。

というわけで最近は、日本語を、片手で、快適かつ極力透明に、入力することのできる装置を夢にみている。
ゴムボールを握るように日本語を入力できるデバイスとか。
MIDI楽器のように日本語を入力できるとか。

楽器っていうアイディアはなんか実現できそうなきがするんだけどなー。

絶対的価値と相対的価値

道具は今でも進歩している。
コンピュータにおいては、しかし、昔の進歩の質と最近の進歩の質が違うように思う。
たとえば、昔の進歩は音楽が鳴らせるようになったり、マウスでダイレクトマニピュレーションができるようになったり、カラー画像が印刷できるようになったり。
今の進歩は、今までの作業がより効率的にできるようになったり、手軽になったり、正確になったりということだと思う。あっと驚く新技術(たとえば、タブレットPC)であっても、何事もなかったかのように扱われる。

コンピュータが不自由で、「できないこと」が多かった時代は、多くの新機能が「できるようになる」変化だったのだろう。
できないことができるようになることには、それにしかできない、絶対的な価値があるんだと思う。
(マニュアルの整備や適切なガイダンスは、できない人ができるようになるという点で、これも価値がある。)

これに対して、できることがもっと効率的になったり、手軽になったり、正確になったりすることは、すでにあるものとの対比ということで、相対的な価値なのだろう。そして、コンピュータでいろいろなことができるようになってしまった今という時代は、ユーザーのプロトタイプとしてのコンピュータモデルを軽薄短小にすることだけが重要という時代なのかもしれない。

タブレットPC仲間の友人は、タブレットPCを買うときに「これはパソコンじゃない」と言った。
僕は今でも、タブレットPCを誰かに見せると「それパソコン?」と聞かれる。
このような出来事は、このシステムが従来からのコンピュータモデルとは違う、絶対的な価値をもっているということを示していると感じる。

道具は何でもできるかと言われるとそうではない。
しかし人間も万能ではないから、道具と人間の間には、まだまだ未開拓の可能性があるということである。
このような領域に絶対的な価値がある。
どのように開拓してゆくのかが、研究者や開発者の腕の見せ所、ということなのだろう。

2008年4月1日

Vista不人気

Vistaはひどい、という感情を伴った意見を聞く。

僕は、1年以上Vistaを使い続けて、そうでもないのに、と思う。
問題があるとすれば、XP時代が長すぎてユーザーが「XP頭」になってしまったこと。
XPのメタファーで解決しようとしてできないことがVistaの最大の失敗。
コンピュータについてよく知っている人であれば、Vistaをいいとこ取りして、使いこなしているだろうと思う。

できないことができるのは進歩。
Vistaは確実にXPより進歩している。

できたことができなくなるのは問題。
できる能力があるのに、それを上手にガイダンスができていないことが、Vistaの不人気の原因だろうと思う。
僕もVistaを「使えるOS」にするために、数日間かけて、サービスを止めたりコントロールパネルをいじったり、ドライバを捜したりしなければならなかった。インストールのたびにするこの作業は、まったく無用な手間である。最初からやっておいてくれ、と言いたいところだ。

Vistaの不人気は、Windows離れの第一歩なのかもしれない。
Microsoftはバージョンアップごとにインタフェースをがらっと変える悪い癖がある。
これは、使いやすさの原理に反している。海保流にいえば「既有知識を生かせない」。
Joel風にいえば、「ユーザの思ったとおりにならない」。
変わるところと変わらないところを明確に区別していかなければ、
そろそろユーザーの認知能力も疲れはじめる。
もし次世代Windowsが同じようにユーザーの経験を軽視した「改良」をするようであれば、
Vistaで経験する以上に非難されることだろう。

EeePC?

EeePCは良くも悪くもASUSレベル。
小さくて軽いけど、放熱が不十分で熱くなることや、SSDが交換できないこと、雑に扱われると壊れそうな基板の実装など、「まだまだ一流メーカーではない」と感じさせる要素が多い。

昔からのメーカーは、ユーザビリティはもちろん、ユーザ視点についてのノウハウをその歴史を通して蓄積してきた。
今のLenovoとAppleを、歴史を踏み続けたメーカーとして紹介したい。
「Thinkpadクオリティ」「Thinkpadフィロソフィ」などと呼ばれるThinkpadらしさは、今でもファンを釘付けにする。
「流行を追いかけるデザインではない」というふうに前置きがされるくらいノウハウが優先で、変更不能なほど堅くなってしまっていることは問題といえるかもしれないが、他のメーカーでは心配しなければならない「発熱」や「互換性」の心配をする必要がないということは、ノウハウの蓄積が信頼となっているためである。

AppleはLenovoとは違う方向性ではあるものの、独自のノウハウを実践している。
Appleは普通に生活している人が普通にモノを使うように情報技術にふれられることを第一に考えているようで、音楽や写真、映像、文書やレポートの作成、インターネットなど一通りの機能は、「誰でも」使えるように設計されている。自社製のオペレーティングシステムを自由に改良してきたこともあり、ユーザが自然とコンピュータにふれあうためのシステムの水準は、かなり高いといえる。
Appleの問題点は、ハードウェアの信頼性につきる。
iPodやMacのバッテリーが爆発するという重大な事故の下には、熱暴走や筐体設計、回路設計についての膨大な問題があり、特にノート型Macに関して、私個人の観想では「不具合のないほうが珍しい」という感じである。

この2社の違いはなんだろうか?それはそのメーカーの歴史においてどこに重点を置いてきたかということである。
Thinkpadは仕事道具としての性能に、Appleは初めてコンピュータにふれる人がその恩恵を得るための性能に注力してきたということだ。そしてそのノウハウを蓄積した期間の長さは、ユーザの尻(=売れ筋動向)を追いかけるだけでなく、「芯」をぶらさずに開発を続けた期間の長さであろう。

よいとか悪いという話ではなく、この世の中でそういうメーカーが生き残ってきたという点をまずは評価したい。

ASUSクオリティはどういうものなのだろうか。
今までASUSは高級PC路線をやっていた。「高級」の内容は、革張りにしてみたり、フェラーリブランドをつけてみたりという感覚のもので、「ブランド満足」を軸にやってきた。
EeePCの低価格PCも、ブランド満足の軸足はぶれていないように見える。

ASUSクオリティの問題は、その革張りだかただむやみに赤いかったり小さいだけのPCが何の役に立つのかということだ。
それは、EeePCバブルのような売れ行きの数字ではなく、その後お蔵入りになる率が示すことである。